神栖市、鹿嶋市、香取市、潮来市でホームページ制作事業を展開する不肖木村の自己マンサイト

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名前 木村賢一
出生・出身地 大阪府寝屋川市に生まれ、4歳の頃から神栖市(神栖町)に在住。
趣味 グルメ、釣り、旅行、キャンプ、カメラ、ホームページ制作
好き ラーメン、パスタ、蕎麦、うどん、焼肉、ステーキ、ソーセージ、エビ、カニ、寿司、ショートケーキ、温泉、日本史
嫌い イカ、タコ、鶏肉、狭い場所
友達 友達は生涯の「宝」だと思っています。老若男女、友人・知人は多いのですが、親しい友達は転勤などでほとんど、神栖市から遠く離れてしまいましたが、時々にメールなどをしてつながっています。同性の友達と同じくらい異性の友達もいますが、ほとんどが10年以上のつきあいになります。ルールを守れば異性とも長い付き合いができると信じています。

幼稚園~中学校時代

幼稚園~中学校までは特に目立つ事もなにもなく、平凡に過ごしました。可もなく不可もなくどこにでもいる平均点な子供だったと思います。

自分でも感心するほど、流されるまま、なんとなく過ごしていたと思います。

 

高校時代

人生最初のターニングポイントは、この高校時代だったと思います。
img011その一つは、自分でも知らぬうちに、人並み外れた体力が付いていたことです。

中学生の頃は太ってしまい、足首の捻挫を繰り返したりで、走るのは特に苦手だったのですが、中学三年生の半ばから少しずつ痩せだし、入学するころにはMAXと比較すると8キロ減。
高校二年になると100メートルを11秒台で走り、ハンドボールは46メートル、アームレスリングは、学校でも1、2番。
柔道なども含め、体力系を得意としました!
色んなことに自信を持てるようになり、3年生の時には駅伝大会で区間賞も取りました。

高校に入って急激に体力が付いたのは、毎朝学校までの長い距離を、常に遅刻ギリギリだったので、競争が如く自転車をこいでいたのが良いトレーニングになったのだと思います。少し早く起きれば、普通に通学できたのに・・・

「●●ポはあっても進歩なし」この毎日の愚か者行為が、強靭な体力を培ったのだと思います。

台風の日でも私の友達と一緒にジャージの上に合羽を着て、卒業するまで全て自転車通学をしていました。今思えば、何故、タクシーを使わなかったのか?

img012ただ、水泳だけはどうにもならず、午前中に水泳の時間があると、昼食が食べられないくらいプールの水を飲みました。

カッコつけの私は、ビード板で泳ぐことを良しとせず(彼女や後輩の視線が気になり)無理して泳いでは、プールの水を飲み、授業が終わると毎回廃人「力石徹by明日のジョー」状態に(ふるっ!)
息つぎの度に「水をガブ飲みクロール」「進まない平泳ぎ」自慢じゃないですが、今も泳ぎはダメです。

文化祭実行委員長をしたり、可愛い彼女ができたり、今思えば「輝いていたぞ、自分!」

今、戻れるとしたら、この時代が第一希望です。

 

社会人になってから

<21歳 レンタルレコード店メロディ開業>

img004夏に、仕事をしないで遊んでいる若者を紹介されたり、路上で見つけては雇い、工事現場に送り込み、開業資金を得ました。何十人送り込んだのか覚えていないくらいです(笑)

私自身は、工場で三交替勤務で15時~翌7時までの連続勤務をしながら、お店の開業準備を進め、9月30日に神栖市(神栖町)大野原で、神栖市初のレンタルレコード店「メロディ」を一夏で稼いだ開業資金のみで開業。店長には妹を据え、経営全般をまかせました。

img005少ない自己資金に加え、思慮も浅く、商売のど素人だったので、開業当初から厳しい経営を強いられました。

親や銀行に頼れる環境になく、赤字になる度、私の残業(連続勤務)したお金や、部屋にある物を片っ端から売り、運転資金としました。

そんな中、商売上手な妹や優秀なバイト高校生の頑張りで、少しずつ売り上げも伸び、繁盛店に。

しかし、大手ライバル店ができたり、妹の体調不調などもあり、売り上げが落ちかけた時点で見切り閉店。でも、三年間よく頑張りました。

<22歳 木村工業有限会社 代表取締役に>

img001諸事情で、会社の借金と一緒に木村工業有限会社を受け継ぐ事に。

「無茶」「無理」「無謀」と友人・知人に止められながらも、現在の新日鐵住金鹿島製鉄所西門前の幸武ビル3階に事務所を構える。

憧れの両袖机を購入。若いうちに身の丈以上の事をしたせいか、周囲の風当たりは強かったのですが、まったく気にせず、我が道を行っていました。
その事務所も、私自身は社員と一緒に遅くまで仕事をしていたので、ほとんど事務所にはおらず、事務員さんがいるだけでした。

img007途中でレーザーカラーコピーの仕事も始め、生命保険会社などからカレンダーなどの仕事依頼もきましたが、事業としては厳しかったと思います。

仕事をしないで遊んでいる若者をスカウトしては、社員として採用して頑張りましたが、無届欠勤、ケンカ・・・問題が次から次へと起こりました。

<24歳 大輝工業有限会社設立>

img003「このままだと、どこにも相手にされない・・・」社名を変更し、会社の体質改善を図り、無届け欠勤を繰り返すなど問題社員を全て解雇。社員も3名から再スタート!

取引先も更に大手に変わり、少しずつ会社らしくなり、社会保険にも加入し体制を整え、少しずつ信用も得て行きました。

仕事がうまく行きかけた事もあり、自社の存在をアピールするために、ホテルの宴会場を貸切、当時流行った「ねるとんパーティ」なども数回にわたり開催!儲けなし(むしろマイナス)

多い時は、参加者は二百名を超えましたが、カップル誕生は数組だけでしたが、とても盛り上がりました。

やる事が派手だったのか、ここでも面白くない人たちの声が聞こえてきましたが、ここでも、そんな声は一切惑わされることなく、我が道を行くでした(笑)

反省すべきは、若さゆえに、慎重さに欠けていたと思います。「考えるより先に行動」だったと思います。

<29歳 初の請け負い職場を得る>

img006人生二番目のターニングポイントは、その5年後やってきました。
ステンレス厚板切断工程など大きな職場を2つまかせられるようになり、初の請け負い職場を得ました。

求人広告も定期的に出し、社員も数倍に増える!
構内に事務所も持たせていただき、社員旅行などもできるようにもなりました。

仕事も現場一筋から、書類の作成などが多くなり、デスクワークをする事が主となり、現場には欠員が出た時にのみ入るように。
接待なども増え、元請け&客先とのつきあいも。

DSCF0017経済的にも余裕ができ、現在の茨城県観光ガイドうぃーくえんど茨城の前身だった「観光ガイドうぃーくえんど」のホームページの材料を求め、那須高原、大阪、富士五湖、成田・・・日帰りも含め、旅行にもよくでかけました。

当時は私のよき理解者でもあった「みっちゃん」「たかちゃん」「ゆきこちゃん」をはじめ、女友達の協力もあり、観光ガイドうぃーくえんどは、Yahoo!カテゴリにも4つも掲載され、一時期は、日に2,000以上のアクセスがあるところまで成長しました。

苦労続きの人生の中で、やっと日の目を見る事ができた、半生での黄金時代到来でした。

変わらなかったのは、経済的に良くはなっても、朝から寝るまで作業服を着ていたことです。

img009仕事柄、深夜も現場は動いていて、重量物を扱い、危険かつ重要な職場をまかせられていたので、枕元には常に携帯電話があり、万が一の時にすぐ動けるように備えていました。

休日でも、三交替で職場は動いていたので、事故やミスの確認や報告を受け、完全なプライベートはなかったと思います。

それでも、休みも取れるようになり、「良く働き、良く遊ぶ」を実践!

しかし、請負職場をまかせられて10年後の朝に新聞を見て呆然としました。

客先の都合で工場が部分合併。職場が九州に集約。メインの職場を失い、他悪い事もたくさん重なり、さんざん悩んだ末に会社を解散。

<41歳 IT企業に就職>

会社の解散時に、貯金など全て失い、借金と辛うじて自宅だけが残りました。

十数年ぶり、久しぶりの貧乏生活に逆戻り。

もちろん遊んでいる余裕はなく、一日でも早く就職するために就職活動を始めました。

個人的に工業の仕事に限界を感じており、以前からやりたかったITの仕事をさがしました。

年齢も40歳を過ぎると、なかなか良い仕事が見つかりません。鹿島臨海工業地帯があるので、工場での三交替なら求人は、たくさんあったのですが、IT系となるとなかなか見つからず、年齢を告げると相手の反応が鈍くなるのを肌で感じました。

専門の技術や知識など、手に職でもないと、40代からの就職はかなり厳しい環境下に置かれることを痛感しました。仕事をさがすのにおいて、世間の厳しさ、自分の甘さをこれでもかと思い知りました。

工業系の資格は多く有していたのですが、IT系の資格は、ホームページビルダーインストラクターのみ。

キーボードの位置を覚えていたのが災いして、ブライドタッチの習得が厳しく挫折しかけました。

しかし、無一文になった自分には挫折したり落ち込んでいる時間すらありませんでした。

住宅ローンを後一ヶ月滞納したら、家を出ないといけない・・貧乏が後押しして、腱鞘炎になるくらい練習して、ブラインドタッチを何とか習得。

一ヶ月の間にパソコン検定4級→3級→準2級と取得。人間、追い詰められるとやれるものなんですね。

その後に神栖市にできたばかりのIT企業に入社。

最初は見習い期間な事もあり、時給800円。一ヶ月目から労働時間は軽く350時間をオーバー。文句なしでブラック企業のお手本みたいな労働環境だったと思います。

救いは職場の人が私より全て年上で、かつ、在社中に一日も休まず朝から夜まで仕事をしたせいか、上司や先輩はとても良くしてくれて、職場は笑いが絶えず、居心地が良かったのがせめてもの救いでした。

しかし、韓国人のオーナーが「もっと儲かってもおかしくない」と、皆に給料を二ヶ月分も支払わず、いきなり事務所を閉鎖。

やむなく、わずか4ヶ月で退職。ついてない・・・

<41歳 ホームページ制作会社ウェブファースト誕生>

DSCF7581ブラックIT企業に就職した時に知り合った、尊敬する篠塚さんの紹介で、通信やアフィリエイト関連の仕事を自宅で始める傍ら、独学でホームページ制作の勉強を、時間が許す限りして、一日一日力を付けていきました。

WEB学校に行くお金も時間もなかった私は、オークションなどでWEB系の学習DVDや書籍を落札しては勉強をして、習得したらオークションで売る。買って売るを繰り返しました。

貧乏人のならではの知恵を駆使し、ソフトなども揃え、日に日にスキルをアップしていきました。

そんな矢先、江戸銀のオヤジさんが、ホームページ制作の依頼をしてくれました。最初のお仕事です。

それをきっかけに、ホームページ制作事業を展開。最初の5年間は休みなしで昼夜働き、暇さえあれば勉強をして、都内のレベルに追い付くべく頑張りました。

江戸銀のオヤジさんは、その後もソフトを買ってくれたり、ずっと応援してくれました。そして、絶えず気にかけてくれました。とてもあたたかい人で、元気づけられました。

軌道に乗るまで、困ったこと、苦しかったことなど地獄も見ましたが、ここでは割愛します。

DSCF7619家族、友達、お客様など多くの方に支えられ、現在に至ります。

国の仕事(国土交通省様)、大企業(新日鐵住金様)、神栖市サッカー協会様はじめ、多くの企業様、個人事業主様からもホームページ制作のお仕事をいただくようになりました。

都内など大手ホームページ制作会社、印刷会社からも実力を認められ、下請けで仕事を頂けるようにもなりました。

アップダウンの激しい、ジェットコースターのような半生でした。

失敗も数多くして痛い目にも遭ったり、思わぬ人に手を差しのべて頂いたり。多くの人に多くの事を学びました。

一番感謝したいのは家族です。特に母には迷惑ばかりかけ、貧乏にも一緒に付き合ってもらいました。

妹や弟にも苦しい時に応援してもらいました。

 

さて、このホームページ制作事業ですが、初心を忘れずに更にスキルを磨き、ホームページを通して地域の活性化に貢献できたらと思っております。

神栖市ホームページ制作会社
ウェブファースト代表 木村賢一

お気軽にお問い合わせください TEL 0299-97-0199 受付時間 10:00 - 18:00 [ 土・日・祝日除く ]

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